LOGINその夜。
夕食をいただいた後、私は女官らに用意してもらった部屋に入る。 八畳ほどの室内。ベッドとテーブル、ひとり掛けのソファーがひとつあるだけの簡素な部屋だ。 日中に服や武器、書物などは運び込んだが、殺風景なことには変わらなかった。 鏡台くらい欲しいな。 そう思いつつ私はソファーに腰かけて、資料を開く。 事件があったのは三か月ほど前。殿下に仕える女官のひとりが死んでいるのが発見された。 部屋でひとりで死んでいて、病死として処理された。 遺体発見時の様子が書かれているが、特に変わった様子はなかった。これは表向きの報告書だ。毒殺の件については何も書かれていない。 今回の事件のように血文字のメッセージ、というような衝撃的なこともなかったらしい。 そう思うと、今回の件とはずいぶんと差がある。 女官自身に何かあったのか、とさえ思うほどに。 ページをめくると、そこには別の冊子が挟まれていた。 それは「極秘」と書かれたもので表紙にはヨウラン殿のサインがある。 これが本当の報告書か。 ページを開くと女官の死に関する真実が書かれていた。 最初は病死かと思われたが、死体の様子がおかしい、とのことで詳しく検死をしたところ、毒殺であることが判明。 死亡推定時刻は前日の夜では、と書かれている。 お茶に仕込まれていたらしく、室内の湯呑からも毒が検出されたらしい。 毒と言っても植物から採れるものらしく、知識があれば誰でも扱える、とある。 それでは容疑者の特定は難しいだろう。「何の為に女官を……?」
顔をしかめ、私は呟く。
殿下に圧力を加えるため? そう思い私は殿下の様子を思い出す。 もしそれが目的ならばかなり効果的だ。 事実、殿下は相当傷ついている。 だがその為に女官を殺すのか? いくら代わりがいくらでもいるとはいえ。 私は報告書を指先で撫でて呟く。「だからといって、命が軽すぎるだろう」
男と女。極端な人口比のせいか、女の命が軽く扱われている様で苦しくなる。
私自身、理屈でそれは理解している。 どうせ変わりはいくらでもいるのだから。という思いがないわけじゃない。 とはいえ実際に命を軽く扱っている様子を目にすると、どうしても反感を覚えてしまう。 私は息をつき、報告書を読み進めていった。 だが他に情報はなく、わかったことは少なかった。 今回の殺人事件とずいぶんと手口に差がある。 静かな毒殺と、派手な血文字。 同じ人物なのか。何か狙いがあるのか。 さっぱりわからない。手がかりがなさすぎる。 そう思い私は報告書を閉じて、背もたれに身体を預けた。「殿下と陛下が狙いならなぜこんな回りくどいことを?」
ふたりを殺す気はないのだろうか。そうなると――
私は顔を歪め、空を見つめた。「やはり圧力か」
殿下を殺さず打撃を与えるには、周囲にいる人物を殺すのが効果的だ。それは殿下の様子を見ていればわかる。
ということはまた女官が殺されるかもしれない。 そしてそれは自分にも及ぶかもしれない。 「そうなるわよね」最初の毒殺だけであれば狙いは女官本人だったかもしれない、となるが今回の事件のおかげで、狙いは殿下である可能性が高くなった。
命を狙うのではなく、圧力をかけるためにまた殺人が起きるかもしれない。そしてその刃は私にも向くだろう。 殿下が心を通わせる女性はいないだろうか? もしそんな女性がいたらその女性が真っ先に狙われるだろうからいない、と思って差し支えないか。 そう思った時、私の脳裏にヨウラン殿の言葉が蘇る。『殿下はまだ後宮を持っておりません。けっして誘惑されぬよう』
そんなことあるわけがない。殿下は十八歳。私は二十二歳だ。後宮に嫁ぐ妃は十二支族から選ばれる。私自身戌の家の人間だが、候補にあがることはないだろう。
選ばれるのは大抵、殿下と同い年や年下だからだ。 ひとりの男が何人もの妻を迎えるのが当たり前だし、心を通わせたところであまりにも意味がない。 恋愛小説ではひとりの男とひとりの女が結ばれるのが王道だが、そんなの夢物語に過ぎない。この国では無理な話だ。 それに。 私は自分に胸に手を当てる。 私の心と身体は皇帝陛下の物だ。それは揺るがない。 そう自分に言い聞かせて私は立ち上がる。 夜の見回りをしなければ。 支度を整えて部屋を出たときだった。 廊下の向こうから殿下が歩いてくるのが見えた。 湯あみをした後だろうか。 わずかに濡れた様子の髪。それにゆったりとした室内着を着ている。 彼は私に気が付くと、微笑み近づいてきた。「シュエファさん」
名を呼ばれ、私は頭を下げて答える。
「殿下、お部屋に下がるところですか?」
「はい。あの、シュエファさん」
殿下は言いにくそうな顔になり、下を俯く。どうしたのだろう。
「殿下?」
そう声をかけると、彼はぎゅっと手を握りしめて顔を上げた。
「あの、すみません。弱気なことを口にして」
神妙な顔で言った後、彼は首を横に振る。
皇太子にならなければ、という発言の事だろうか。 私は頷き、「そうですね」
と、短く答える。
すると彼はびくっと震えて、泣きそうな目を私に向ける。「あのような発言は、私以外の前ではなさらないでください。弱い姿を見せたら犯人の思うつぼですから」
淡々と告げると、彼はこくり、と頷き、
「そう、ですね」
と、悲しげに呟く。
凄惨な事件があったのは今日であるし、気持ちを切り替えるなどできないだろう。陛下とは違うのだから。 弱々しく震える姿を見ると彼が皇帝の座につけるのか不安になってくる。 けれど強くなってもらわねば。この巨大な国を背負う宿命を、殿下は背負っているのだから。 「今日はゆっくりとお休みください。私は夜の見回りを……」「すみません、シュエファ、さん」
立ち去ろうとする私を殿下がひきとめる。
「あの、少し僕と話しをしていただけませんか?」
そう口にした殿下の目は、まるで雨の中の子犬のような訴えかけるものに見えた。
殿下の誕生日の祝宴を終え、年末がやってくる。 宮廷内は慌ただしく正月の準備を進めていた。 その後、あのリン、という女官との接触はない。 彼女は皇帝陛下が住まう宮殿を中心に仕事をしているらしくを合わせるような機会がない。 見かけたところで気が付くか、と言われると微妙だが。見た目が特徴的ではないし。 その女官が皇帝陛下に仕えているため、殿下と面識があったから殿下は名前を覚えていたようだが。そうでなければ、印象にも残らないだろう。 私だってもう一度すれ違ったとして気が付くかといわれたらあまり自信はなかった。 祝宴から二週間近くが過ぎたある夜、湯を浴びたあとの習慣となった殿下とのお茶の時間。 隣に座る殿下は私に向かって言った。 「その後、例の女官の接触はないんですか?」「えぇ、とくには。そもそも私は陛下の住まう宮殿に行くことはそうそうないですから」 淡々と答え、私は湯気を上げる湯呑を手にする。 北の国から取り寄せた、というお茶はかぐわしい香りを漂わせている。「というと、父とも顔を合わせていないのですか?」 父、という言葉に一瞬私は手を止めてしまうが、なるべく平静を装い殿下の方を向き答えた。「えぇ、お会いしておりません。呼出もありませんし」 その言葉を聞いた殿下は心底安心した様な顔になる。 そんな顔を見せるのもどうかと思うが、殿下は心底皇帝陛下のことを毛嫌いしているようだ。「それならよかったです。父は……そもそも後宮があるのに方々に浮名を流していて、僕には理解できないです」 顔を歪めて殿下は言い、湯呑を握りしめてぐい、とそれを飲む。 ここ、殿下の私邸にいても皇帝陛下の女遊びの噂は尽きず、しょっちゅう耳にする。 どこの商人のお嬢さんと密会をしているとか、大臣の娘と懇意だとか。人妻を連れ込んでいるだとか。日頃の行いがおこないなので、どの話も本当のことのようにしか聞こえず、噂は広がっていくばかりだ。 私だってそんな女のひとりだった。その事を思うと私は殿下が抱く嫌悪感に何も言葉にできず、ただ黙ってお茶を飲むことしかできなかった。「このまま何も起きなければいいですが」 と言い、殿下は私の膝にそっと、手を置く。 殿下は最近、こういった接触を私にしてくる。 最初は驚いていたが最近は慣れてしまい、私は湯呑を机に置いてその手に自分の手
私の呟きに殿下は肩をすくめて苦笑を浮かべる。「それは難しいかと思います。だってもし犯人に気が付かれたら命が危ないですし。この話だって、時間が経ったから出てきたのだろうと思うので」「そうですよね……そう思うと見つけるのは難しいか。でも、少しずつ話が表に出てくるかもしれませんから噂をたどるのはいいかもしれません。時間が経って、黙っていられなくなってくるでしょうし」 そうなったら敵は何か動き出すかもしれない。 殿下の私邸に忍び込むようなことはしないだろう、とは思う。なぜならこの私邸に出入りできる女官は限られているし、知らない顔があれば目立つからだ。それ以外にここに入れる女性は、殿下の母上くらいだろう。護衛の兵も自由に出入りすることはできないのだから。 そうなると、この中は安全と思って大丈夫だろうか。いや、ここに出入りする女官たちから鍵を奪われたら最後か。直接殿下を手にかけるような、愚かなことはしないと思いたいが。 そう思い、私は湯呑に手を伸ばした。 殿下も湯呑を手にし、不安げに瞳を揺らして言った。「あの、リンさんは事件に関わりがあるんでしょうか」「私を睨み付けていたのは事実です。私と彼女に何の接点もありませんから、あるとすれば殿下との関わりしかないかなと思います」 そう答えて私はお茶を飲む。香ばしい香りのお茶で、身体が温かくなる感じがした。「あの時のお茶、何か仕込まれていたんでしょうか」 呟き、殿下は湯呑の中を見つめている。 それは確かめようがなかったのでわからないが、どうだろう。あの状況で何か仕込んだら彼女は疑われるだろう。誰でも何かを仕込める状況でもあったからそうでもない、だろうか。 殿下の言葉に私は何も答えられず、黙ってお茶をぐい、と飲んだ。 殿下は何かを思いついたのか、ばっと顔を上げて微笑み言った。「もし仕込まれていたら、シュエファさんのお陰で危機を避けられたことになりますよね」「あぁ、そう、なりますね」 仕込まれていたら、の話だが。私は湯呑を置き、殿下が用意してくれたお菓子に手を伸ばす。今日のおやつはいもけんぴだった。甘い香りがわずかにしてくる。 殿下は湯呑を置き、お菓子を摘まんだ私の手を両手でそっと握ってきた。 驚く私に、殿下は頬を赤らめて言った。「ありがとうございます、シュエファさん」「え、あ……いいえ。あの、
朝食の後、殿下は今日一日、私邸の中で過ごすというので私は自室に下がり女官たちの資料に目を通した。 昨日、私を睨んできたあの女官。確か殿下は、リン、と呼んでいた。 年代は多分三十歳前後。同じ名字の名前は何人もいたが、その世代の女官は数人しかいなかった。 そして、巳の家の推薦、となるとひとりだけだ。 林 氷蘭。年齢は三十二歳か。たぶんあの時お茶を運んできたのはこの女性だろう。 二十歳ごろに女官となって一度やめ、二年ほど前に戻ってきたらしい。 学校を卒業した後しばらく働いて、結婚や出産で辞めてまた復帰するのは普通なのでそれは問題ないが。普通は子育てが終わるころに皆戻って来る。三十歳で仕事に復帰するのは少し早いように思う。しかも女官の大半は、宮廷内の寮に住むことになる。小さな子供がいる状況でここで働くことを選ぶのだろうか。 そう思うとなんだか不自然な気がした。「でもまあ、子供を家族に預けて、ということもなくはないが」 そう呟き、私は机の上の湯呑に手を伸ばした。 子供がいるのか、ということまでは書かれていないが、夫はいるらしい。 疑わしい、と思ったら何もかもが怪しく見えてくる。 「昨日の祝宴から、動きがあればいいけれど」 そう呟くが、その動き、というものが誰かの死を伴うとなるとまずい。 私を襲ってくれた方が嬉しいのだが。 そう思ってお茶を飲み、私は資料を見つめる。「なかなか尻尾を出してくれないね」 そう呟き私は資料にある名前を撫でた。 その時、扉を叩く音がした。「シュエファさん、あのお話があるんですが」 殿下の声がして私はびくっと震えてしまい、頭の中に今朝の出来事がよぎる。 話、というのはきっと昨日のことだろう。昨日の今日で何か情報を得たとは思えないが。 いや、女官たちがなにか噂していたような気がするから、彼女たちから何か聞きだしたのかもしれない。 私は慌てて立ち上がり、扉へと近づきそっと、それを開く。 廊下に立つ殿下は、私の顔を見てぱっと、嬉しそうな顔になる。「あの、昨日の女官の事なのですが」 と言い、辺りをちらっと見まわす。 もちろんここには誰もいない。掃除はすでに終わっているし、用がなければ二階に女官たちは上がってこないのだから。「話をしたいのですが女官たちに聞かれたらまずいし、どうしよ
殿下の部屋の前を離れて自室に入り、私は勢いよく寝台に寝転がった。 疲れた。 殿下の誕生日の祝宴。怪しい女官。殿下のおじい様の言葉。陛下の執着。そして―― 私は自分の唇をそっと指先で撫でる。 先ほどの殿下は、普段とは別人のようだった。 まるで肉食獣のような目で私を見つめていたが、あれが殿下の本質なのか? 陛下とはまるで違う、と思っていたがその本質は同じなのかもしれない。 私は、殿下の何を見てきたのだろう。 私は今まで皇帝陛下と何度も身体を重ねてきた。それは私が望んでのことだし、愛人であり遊びであることも理解していた。 なのに私は殿下と過ごすようになってから陛下から心が離れ、以前のようなときめきはなくなってしまった。 そして殿下の行動、言動に心を揺り動かされている。 私は仰向けに寝転がり、天井を見つめる。 「私らしくないだろう」 年下の殿下に振り回されるなんて。 自分で自分の感情がよくわからない。 けれど。殿下に口づけられて、私は拒否できなかった。「嫌では……なかったしな」 そう呟き、私は大きく息を吐く。 皇帝陛下との情事は嫌で仕方なかったのに。私の心はすでに殿下の所にあるのだろうな。そう自覚すると、一気に全身の体温が上がるような気がした。 陛下と関係を持ったうえで殿下とも? いや、それは私の倫理観が許さない。あってはならないだろう。 いくら殿下に皇帝陛下との関係がばれてしまっているとはいえ、ダメだ。そんなのは。 そう自分に言い聞かせて私は寝返りを打ち、扉の方を見つめた。 殿下と同じ屋敷の中。男女が同じ屋根の下、というのは本来ならよくないのだろうが。男が極端に少ないこの国ではありうることだ。そんなことを気にしていたら、護衛などできないのだから。 今、その事が完全に裏目に出ている。 もう私は、この檻から出られることはないのだろうな。 ならば、腹をくくるしかないだろうが。 今私がしなくてはいけないのは犯人探しだ。 恋にうつつを抜かしている場合ではない。 そう自分に言い聞かせて、私は目を閉じた。 疲れていたからだろう。あっという間に私は夢の世界へと旅立った。 翌朝。 朝の見回りをした後私邸へと戻ると、朝食のいい匂いが漂ってきた。 女官が朝食を作ってくれているのだろう。 食堂へと向かうとそこには誰の姿もな
このままではまずい。 そう思い私は口付けの合間に殿下に向かって言った。「お、お戯れは止めてください」「……僕は本気ですよ、シュエファさん」 愛おしそうに目を細めて言い、殿下は触れるだけの口づけを繰り返す。 なんてもどかしいんだろう。 少し前に、皇帝陛下と情事を重ねたあとの私には物足りなさすぎる。 けれどそんなこと口にできるわけがない。 どうやってこの状況を乗り切るのか、その考えで頭の中はいっぱいになっていた。 だが何もまとまらない。私が本気になればこの場から逃げ出すのはたやすい。だがそんなことをしたら殿下を傷つけてしまうだろう。 身体も、心も。 そう思うと動けなかった。 満足したのか、唇を離した殿下は熱い視線で私を見つめてくる。 そんな殿下に私は、震える声で言った。 「殿下……」「ツァロン、ですよ、シュエファさん」 言いながら彼は私の唇をそっと、指先で撫でる。 そう言われても、名前でなど呼べるわけがない。私は殿下の護衛、なのだから。 私はそんな殿下の手首をそっと掴み、首を振り絞り出すような声で言う。「もう遅いです。お休みになられた方がいいですよ」 これでなんとかこの場をやり過ごしたい。 殿下はにこり、と笑い、「そうですね。では一緒に行きましょう」 と告げ、立ち上がり私に手を差し出した。 その手を拒絶できるわけがなく、私は仕方なくその手を掴む。 立ち上がった私を満足げに見つめ、「行きましょう」 と言い、私の手を掴んだまま歩き出した。 掴まれた手の力は強く、簡単に振り払えそうにない。 まさかこのまま寝所に私を……? そんな考えが頭をよぎるが、そんなはずない、とすぐに否定する。 けれど私の心臓は確実に早鐘をうち、私の頭の中は殿下から逃げる方法を考えるのでいっぱいだった。 だがどう考えても無理だ。そもそも、殺人事件が起き、殿下の私邸に住む、と言い出したのは私ではないか。 今さら逃げられるわけがない。 どうか、このあと何も起きませんように。 私はそう、守護獣に祈り殿下に連れられて階段を上った。 廊下に着き、そのまま殿下は私室へと向かう。その間も殿下は私の手を離そうとはしなかった。 そして、殿下の部屋の前に着く。 このまま私を解放してほしい。そう願う私に、殿下は振り返り言った。「ねえシュエファさ
湯を浴びて廊下に出ると、案の定殿下が現れ濡れた瞳で私を見つめた。「あの、シュエファさん」 震える声が響き、私の胸に痛みが走る。今、私は殿下の顔をまともに見られない。「はい」 そう短く返事をして私は殿下から視線を外してしまう。 風呂場で確認したが、胸などに陛下の痕がついていた。ということは首にもなにか痕跡が残されているかもしれない。 そう思うと気が気ではなかった。「あの、お茶を用意してあるんですが」 やはりそうなるか。 もちろん断れるはずがなく、私は諦めて顔を上げ、力なく笑った。「ありがとうございます」 礼を告げて私は殿下の後について居間へと入った。 温かな部屋。机の上に並べられた、ふたつの湯呑。それはどちらもいつも殿下が座る長椅子の前に置かれている。 それを見て私は違和感を覚えたものの、当たり前のように殿下が隣を示して、「座ってください」 と言うので仕方なく従った。 私は湯呑を手にし、殿下の方に目を向ける。「お疲れではないのですか?」「あはは、そうですね。でも大丈夫です」 と、疲れた顔で答えて湯呑に口をつけた。 その様子を見て私は、胸にざわめきを感じながら「ご無理はなさらないでください」 と声をかける。 すると殿下は私の方を向いて、「ありがとうございます」 と屈託なく笑った。 その様子を見て私は陛下との違いに戸惑ってしまう。 本当に血の繋がりがあるのか、と疑わしくなるほど殿下は穢れを知らない、真っ白な存在に見える。 絶対に、私と陛下との関係を、殿下に知られてはならない。 隣にいればいるほど苦しくなってきてしまう。 早くこの場を離れなければ。 私は一気にお茶を半分飲み、大きく息をついた。「ねえシュエファさん」 耳に絡みつくような甘い声が聞こえ、私はハッとする。 驚いて殿下の方を見ると、いつの間にか湯呑を机に置いた殿下が私の方にすっと、手を伸ばしてきた。 その手が頬に触れて、顔が近づいてくる。私は殿下から目を離さず湯呑をゆっくりと、机の上に置いた。 これから何が起きるのか。考えると胃の底が冷えるような気がした。 そして、先ほどまでの不安げな顔とは違う、真面目な顔になって言った。「どこで何をしていたんですか?」 静かに、低く響く声に私は内心戸惑ってしまう。「何を、というのは……」 言いな
香の匂いだろう。独特の、甘い匂いが部屋から溢れてくる。 扉を閉めて私は薄暗い室内へと目を向けると、長椅子に腰かけて黒い切子を手にゆったりと座る皇帝陛下の姿が目に入った。 深紅の寝間着を着て胸元がはだけて見える。 室内は暖かく過ごしやすい。 陛下は私の方を見ると、にやりと笑い切子をこちらに向けて言った。「こちらに来い、シュエファ」 私は頷いて答え、外套を脱ぎ陛下が座る長椅子に近づく。 そして外套を腕に抱えたまま、すっと立ち陛下に向かって言った。「お呼び出しに応じ、参上いたしました」 私の言葉を聞き、陛下は声を上げて笑った。「ははは。ずいぶんと硬い挨拶だな、シュエファ。ツァ
この胸の痛みは何だろうか。 そう思いつつ私は気弱そうな顔をしている殿下を見る。 先ほどまで招待客たちの前で凛と対応していた姿からは遠い姿だな。 ずっと気を張っていたのだろうか。 役割を演じなければいけない殿下。そう思うと心がすこしばかり痛くなる。 私が後宮に入る、ということは私は殿下と…… あらぬ想像をしてしまい、私は殿下から目をそらした。まだ後宮に入る、とは決めていないじゃないか。 そもそも私に、殿下の後宮に入る資格などないのだから。 私は皇帝陛下の寵愛を受けてきた。そんな私が殿下に愛されるなんてあってはならないだろう。 そう自分に言い聞かせて、私はゆっくりと立ち上がる
そのあと、殿下は十二支族の家長を見つけて自分から声をかけにいった。 巳の家の家長と子の家の家長にだけ話しかけるわけにはいかないと思ったようで、私の父を含めて全員と会話を交わした。 私はそばでずっと様子を伺っていたが、特に変わったところは見受けられなかったと思う。 ただそばで聞いていて、殿下は少しひやひやするような言葉を投げかけられていた。 子の家の家長は酒でずいぶんと酔っているのか、顔がだいぶ紅く見える。「殿下は誠実そうで、外で遊ぶなどは出来なさそうですね」 と、軽口をたたくと殿下は苦笑を浮かべて首を傾げた。「そうですね、僕はあまり外には出ませんから」 その言葉に子の家の家
ただ手を握られているだけなのに、心臓が早鐘をうっているのがわかる。 もしかしたら顔が紅いかもしれない。 自分から殿下のそばに座ったとはいえ、この状況は何だ。 殿下のこの距離感はおかしいんじゃないだろうか。 そう思うのに私は全然動けなかった。 殿下のまとう柔らかい匂いが私の鼻孔に絡まってくる。そして微笑み私の顔をじっと見つめる殿下の瞳に、私は動揺していた。 その視線はまるで恋をする乙女のような、熱を帯びたものに見えた。 私の動揺した顔が、殿下の深い青の瞳に映っている。 殿下はずい、と私に顔を近づけてくると、「シュエファさんがいるから僕はまだこうしてここにいられます。じゃなか